KFCフォト・ライブラリーから貴重な写真を紹介しましょう。
毎年8月の太平洋戦争終戦時になると、広島と長崎の原爆投下がTVで放映されます。でも、投下された日本(広島と長崎)からの目線ばかりの番組です。だから、ここではどこから、どのようにして原子爆弾が日本へ運ばれてきたのかを、当時の写真と共にお知らせします。
右の写真は上から、①長崎に投下された原子爆弾、②広島に投下された原子爆弾、③B29爆撃機に搭載されようとしている広島型原子爆弾、④その原爆を広島へ運んだ爆撃機エノゲイの機体、⑤滑走路を整備している作業風景、背後に見える山はサイパン島。⑦1944年6月当時の陥落前のテニアン島日本人街の写真。
①の白く丸い形状のものが長崎へ、②の黒い棒状のものが広島へ投下されました原子爆弾です。これらの写真に写り込んでいる米兵で原爆自体の大きさが分かります。意外とコンパクトです。こんな物があれだけの大被害を引き起こしたのです。
1945年8月6日と8月9日に広島と長崎に投下された原子爆弾は約2500km南方にある北マリアナ諸島テニアン島から米軍のB29爆撃機によって運ばれてきたのです。米国本土から飛んできたと思っている人もいるようですが、それは違います。当時、日本の統治下にあったテニアン島からサトウキビ栽培に従事する日本の民間人や日本兵を圧倒的な武力で排除し、米軍が占領したのもです。1944年7月のことです。
テニアン島は台形の平らな地形をしています。そして、島全体が石灰岩の隆起できており、全てが固い地面です。島南部は低い丘があるのに対し、北部は本当にまっ平です。滑走路を造るには持って来いですの地形です。その地形を利用し、テニアン島占領後、急ピッチで米軍は島北部に4本のB29爆撃機用の滑走路を建設工事に取り掛かりました。1本が長さ2600m、幅600mです。結局、工事から1年後には出来上がったばかりの滑走路からB29爆撃機が飛び立ったことになります。
その工事と並行して、島南部に日本統治時代に日本人が造っていた港を整備し、米国からそこへ原子爆弾を船で運び込み、荷揚げできるようにしました。滑走路に近い島北部は遠浅で船が容易に接岸できません。
さらに、島南部の港から島北部の滑走路(飛行場)まで原子爆弾を運ぶためのまっすくな道路も建設しました。その距離は全長13kmほどです。その道路を本国のニューヨークにある有名な道路に因んでBROADWAY(ブロードウェイ)と名付けました。その道路は現在も島民たちの生活道路となっています。
この滑走路(Runway Able)は戦後80年間も放ったらかしにされ、荒れ放題状態で、出入りも自由でした。我々KFCは2000年に米軍の許可を得て、テニアン政庁と共にこの滑走路をバイクコースに組み込んだトライアスロン大会を開催したことがあります。なんとも平和な時代でした。それが2~3年前から米国の対中国戦略基地の一つに組み込まれ、再整備がなされ、米軍の軍事演習等々が行われています。当然、同盟国である自衛隊も参加しています。当時の人々には想像すらできない展開と思います。